安昌寺についてAbout Anshoji

宗旨・教義

宗旨

曹洞宗は、お釈迦さまより歴代の祖師(そし)方によって相続されてきた「生伝(しょうでん)の仏法(ぶっぽう)」を依どりころとする宗派です。それは坐禅の教えを依りどころにしており、坐禅の実践によって得る身と心のやすらぎが、そのまま「仏の姿」であると自覚することにあります。

そして坐禅の精神による行住座臥(ぎょうじゅうざが)(「行」とは歩くこと、「住」とはとどまること、「坐」とは坐ること、「臥」とは寝ることで、生活のすべてを指します。)の生活に安住し、お互いに安らかでおだやかな日々を送ることに、人間として生まれてきたこの世に価値を見いだしていこうというのです。

教義

私たちが人間として生を得るということは、仏さまと同じ心、「仏心(ぶっしん)」を与えられてこの世に生まれたと、道元禅師はおっしゃっておられます。「仏心」には、自分のいのちを大切にするだけでなく他の人びとや物のいのちも大切にする、他人への思いやりが息づいています。しかし、私たちはその尊さに気づかずに我がまま勝手の生活をして苦しみや悩みのもとをつくってしまいがちです。

お釈迦さま、道元禅師、瑩山禅師の「み教え」を信じ、その教えに導かれて、毎日の生活の中の行い一つひとつを大切にすることを心がけたならば、身と心が調えられ私たちのなかにある「仏の姿」が明らかとなります。

日々の生活を意識して行じ、互いに生きる喜びを見いだしていくことが、曹洞宗の目指す生き方といえましょう。

開山1601年(慶長6年)からの歴史

開創400年から創建400年

当寺は、久林寺安昌寺といい、初め三河国(愛知県)伊奈にあり東漸寺といいましたが、慶長6年(1601年)、本多康俊が三河国西尾城主となった時に、この寺も移り久林寺安昌寺と改称されました。

その後、本多侯の移封に伴って膳所、伊勢亀山と移り、慶安4年(1651年)本多侯が膳所再封により、現在地に定まりました。

膳所烈士

膳所藩十一烈士

膳所烈士とは、保田正経、田河武整、阿閉信足、槇島光顕、森祐信、高橋正功、高橋幸佑、関元吉、渡辺緝、増田正房、深栖俊助(当道)の十一人のことを指します。

膳所の地は、徳川家の譜代大名である本多氏が多年藩主として、彦根の井伊家と共に近畿の重要な位置を守り、膳所藩は、幕府から御所の火消しと修理役を命ぜられていました。

幕府は家康以来、武士に学問を奨励した。もともとは朱子学を奨励したのであるが、十三代安完(やすさだ)公になって京都の皆川淇園という学者について藩主が講義を開き、次の康禎(やすつぐ)公も皆川淇園の子孫をねぎらわれた。藩校「遵義堂」は、こうした関係から、皆川淇園の計画にもとづいて文化六年(1809)完成した。皆川淇園が古註学派であった関係から「遵義堂」の学者は古学派が優勢であって、天保になって朱子学派が優勢となっている。膳所藩の職掌柄もあるが、こうして真剣に学問をするうちに、尊ぶべきは天皇であって、幕府といえども天皇の命を重んじねばならぬという考えを心にいだく人が出てきた。康穣(やすしげ)公の慶応元年(1865)の「尽忠報国」という見事な筆蹟によっても藩主自身の考えがうかがえます。

幕末騒然としたころ、膳所藩も尊攘派(正義党)と保守党(俗論派)が激しく対立していました。慶応元年(1865)、禁門の変を引き起こした長州に対して第一次長州征伐が発令されました。その指揮を執るために第14代将軍徳川家茂が上洛することになったのです。その家茂が5月17日に膳所城に一泊するという通知が膳所藩に届けられました。藩は中老保田正経等三人を普請奉行に任じ、急遽御殿の改修に取りかかり、将軍到着の数日前にやっと完成しました。

しかし将軍の泊まる前々日になって、京都守護職の松平容保から膳所藩の尊攘派が将軍暗殺を企んでいる疑いがあるとして取りやめにされたとの通知され、藩内は大騒ぎになります。将軍暗殺計画を京都守護職に密告したのは、膳所藩の佐幕派だった藩老上坂三郎右衛門で、この事態に藩は藩内の不穏分子を一掃し、目の上の瘤である尊攘派を処分する絶好の機会として、5月14日から膳所城下で尊攘派だった十一烈士を投獄します。

どれほどの吟味があったか疑わしいが、5ヶ月後の10月21日、死罪という厳しい判決が言い渡されました。すなわち即日、百石以上の保田正経、阿閉信足ら4名は安昌寺で切腹。儒者高橋正功、同森祐信らの7名は斬首の上、岡山墓地に葬られました。また遺族は2日以内に領内より立ち退きを命ぜられました。

投獄された烈士には筆や紙は与えられず、当初は独房での深い瞑想でした。そのうち藩校尊義堂の師範であり、尊攘派の理論的指導者であった高橋正功が、わずかに与えられたちり紙でこよりを作って飯粒で固め、これをちり紙に貼り付け文字にして詩歌を詠み、悲運の身を慰めていました。牢番の村田次郎一はこれを密に各独房に回したので、無聊をかこっていた烈士たちもこよりで詩歌や俳句を作るようになりました。これら遺品は40数点にもなり、現在は瓦ヶ浜の本多神社資料館や大津市歴史博物館に保存されています。

膳所列士は、家族が国を追われる事、家名が断絶、親族に負担をかける。その辛く悲しい汚名を甘んじて受け入れ、それでも膳所藩と人々を護る為、罪を受けました。日本の国を、武士として、これからの世の中を、見据えながら。